30代半ばで仕事を辞めた友人が「働かない期間」を設ける理由

先日久しぶりに旧友からLINEで連絡がきた。

「今度近くに行く用事があるので、食事でも行かないか?」とのこと。

彼は私と同い年で今年度35歳になるが、今年の春に勤めていた職場を退職し、約5カ月間無職の期間を過ごしている。

なぜ彼は仕事を辞めたのか?

なぜ働かないのか?

私は率直に興味があり、彼にインタビューをしてみた。

そして、彼の答えを聞きながら私は思った。

「人は働き続けねばならない」という固定概念が、いかに人にプレッシャーを掛けて、人生から自由を奪っているのか?ということを。

 

新卒の時代、元々やりたい仕事はなかった

話は十年前に遡る。

彼は国立大学の文系の学部を卒業し、新潟市内の企業でキャリアをスタートさせた。

他の学生と同様に就活をしていたが、「正直なところやりたい仕事はなかったし、働きたいとも思っていなかった」と話す。

「でも大学に入る時点で卒業後は就職しなければいけないと思っていたので、積極的な気持ちはなかったが就活はした。

地元企業で土日が休みで、比較的安定感がありそうな企業を選び内定を取ることができた。

面接では『地域に貢献をしたい』と話したが、『地元に居たい』というのが本音だ」。

その企業には10年近く勤務し、彼は転職をした。

業務の負荷が増えたことや、上司や同僚に対しての不満が増えたこと、理不尽だと感じることが次第に増えていったのだという。

「その仕事に対して強い志を持っている人間なら、困難にあっても乗り越えて行くのだろうけれど、自分はそうではなかった。

その中で、我慢をしながらその職場に居続ける意味が分からなくなっていた。

安定はあっても、それは妥協でしかない。夢が叶うわけでもない。

そうなるともう、1年後そこで自分が働いているイメージができなくなっていた」。

 

変化を求めて次の職場へ

そうして彼は新卒で入った会社で丸9年働き、別の職場へと転職した。

転職先は異業種ではあったが、職種は前職と共通点がありそうな事務職だった。

「環境を変えればフィットする可能性もある。どうなるか分からないけれど、現状維持という選択肢はなかった」と彼は話す。

その新しい仕事に対してのワクワク感は特になかったという。

ただ、前の職場とは違うところを見てみたいという気持ちが彼を動かした。

転職をして働き始めてみると、前職の仕事との共通点もあり、慣れない職場で疲れるということ以外のストレスは感じなかったという。

しかし、1カ月が経過する頃になると、前職と同じように違和感や不快感を感じるようになった。

「以前の職場とは違うけれど、毎年行われる業務のノウハウが蓄積されていなかったり、合理性を求めていなかったり、問題意識がなかったり…。そういった仕事の取り組み方や、個人の意識に違和感を感じるようになってしまって。

でも、元々強い志を持って入社したわけではなかったので、『自分が変えてやる!』というエネルギーもなかった。

かと言って、非効率な仕事のやり方になじむこともできずにいた」。

結局その2社目の職場は1年だけ勤務して退職をすることになった。

今年の3月末のことだ。

 

つらい仕事を我慢して続けることに価値はない

彼は今、ひとまず仕事をしないことに決めて、実家で暮らしている。

「転職をしたら解決するかもしれないと思ったが、結局同じような気持ちになり退職をすることになった。

もし次の職場に転職をしても、同じことを繰り返すかもしれない。正直、疲れ果てていた。

そういう人生はこれ以上やりたくないと思い、いったんすべての荷物を降ろしてみたいと思った」。

彼は実家暮らしで生活コストを抑えつつ、貯金を使って生活をしている。

「一つの会社に長く勤めて出世をしていくという『人生設計図』があるとしたら、自分はそういう人生を望んでいないことに気付いた。

出世欲も大きな仕事をしたいという欲求もない。

結婚、子育て、マイホームにも憧れがない。

だから、自分にとってつらい仕事を我慢して続ける理由がない。

ただ、もちろん働かないことは不安ではある。できるなら、普通の人生を送れたらそれがいいのかもしれないけれど、自分にとっては我慢してやりたいものではない」。

 

理想とする働き方とは?

「今後働くならば、自分の価値観を体現できる仕事でなければいけないと思っている。でも、それは自分にとって何なんだろう?

10代後半で考えるテーマに、30代になって今もう一度向き合っている」と彼は話す。

そんな率直な言葉に私は人生のリアルさを感じずにはいられなかった。

「30代半ばならば、それまで積み上げてきたキャリアをベースに、リーダーシップを発揮して、さらに付加価値の高い仕事をしなければならない」。そんな声が聞こえてきそうだ。

もちろんそれも一つの解である。

しかし、人間何歳になっても立ち止まったり、方向転換したり、挑戦したり、休んだりしてもいいのではないだろうか?

「こうあるべき」という有無を言わさない固定概念が人生の自由度を奪ったり、人の人生に無理やり優劣をつけようとしているように感じてしまう。

彼は今、眠たい時に寝て、腹が減ったら食事をし、出掛けたくなったら出掛けるという、自由な生活を送っている。

「今やりたくないことを下手に我慢してやってしまうことがもったいない」と彼は話す。

常識的な人には共感されないかもしれないが、それが人間としての尊い本音なのではないだろうか。

彼は今、レース中の車がピットインをするような時間の中にいるのかもしれない。

いや、人生をレースに例えること自体が間違っている。

頑張るのが好きな人は頑張ればいいし、そうでない人は頑張らなくていい。

私はそれでいいと思っている。

日本を出て長い旅をすると分かることがある。いい意味で、日本人以外はテキトーなのだ。それでいて、日本人ほどストレスを感じずに生きている人が多いように見える。

 

彼は次の働き方…と言うよりは次の生き方を模索している。

「これまでは、仕事が何%で、家庭が何%、趣味が何%という考え方をするものだと思っていた。その考え方で行くと、仕事は50%くらいに抑えておきたいとか、そういう発想になってしまう。

だけど、今自分が考えている仕事は95%か100%まで上げていかないと実現できないと思っている。

今仕事を辞めて自分の中のパラメーターがゼロになったからそういう発想ができるんだと思う。

その仕事を本当に目指すべきかどうか、まだ覚悟ができていないが、キツそうだけれどワクワクする。」

具体的には教えてくれなかったが、その仕事は一生修行のようなものであり、職人的でもあるという。

それまで特にやりたい仕事がなかったという彼だが、もう生きるためにやりたくない仕事をするのはやめようと思っている。

私たちの親の世代は新卒で入った会社で定年まで勤めあげるのが王道だった。

多くの大人が嫌な仕事でも我慢をして何十年も同じ会社で勤めあげたのだと思う。

それは時代の価値観によるところだから、いいも悪いもないのだが、私もそのような生き方はしたくない。

人生は長い。

迷いなく突き進む人もいれば、そうでない人もいる。

こうあるべきというかつての概念に従って生きることに違和感を感じたら、違う概念をつくる必要がある。

自分自身の声に耳を傾けて行動する生き方のほうに私は興味がある。

それは35歳でも50歳でも70歳でも、旅をするように好きに人生を変えていっていいと思うし、そう考えると人生がもっと自由で楽しいものになりそうだ。

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