東日本大震災から7年。三陸の街を訪れたら風景が激変していた

3.11。それは、情け容赦ない自然の暴力が起きた日

2011年3月11日。東日本大震災は日本国民を震撼させた。

私は当時27歳で、東京都内の出版社で働いていた。

会社内でいつものように仕事をしている時に大きな揺れを感じ、私はデスクのパソコンが落下しないようにパソコンを押さえながら揺れが収まるのを待っていた。

突然の地震に社内はざわついた。

仕事をしながら、インターネットで地震速報を見て東北地方の太平洋沖で大きな地震が起こったことを知った。

その後仕事の手を止めて、動画共有サービスのユーストリームで東北地方の太平洋沿岸部の映像を見始めた。

まだ津波が来ていない平穏に見える三陸の街に津波が押し寄せてくる映像だった。

ただそれは津波が「押し寄せてくる」という感じのものではなく、徐々に水かさが増していき、やがてそれが大きな濁流となり、堤防を乗り越え、車道に流れ込み、気が付けば車を飲み込み、家までも飲み込んでいくという、現実のものとは思えない風景だった。

道路を走っている車よりも津波のスピードが速く、いくつもの車が飲み込まれていった。

なんでもない日常が突然に人も車も街も飲み込んでいく。情け容赦ない自然の暴力がそこにあった。

私はその光景が他人事には思えずにいた。

あの津波に飲み込まれた車の運転手が、友人や家族や自分自身であっても不思議ではないと思ったからだ。

 

津波の被害を受けた沿岸部を撮影して回る

私はその年の7月に務めていた出版社を退職した。

新卒で入社して5年3カ月が経ち、私は28歳になっていた。

その後の人生を生きていく上で、ひとまず働かない期間をつくってみたいと思ったからだ。

最近では「ライフ・シフト」がベストセラーになり、エクスプローラーの期間と言われるようになったが、当時「ひとまず働くのをやめる期間にする」と周囲に話すと、過剰に心配をされたり呆れられたりしたことを思い出す。

ただ、このタイミングで人生を変えようと思い実行するのに、少なからず東日本大震災が背中を押していた。

私は5年3カ月の東京生活に区切りをつけ、ひとまず当時実家があった新潟県五泉市へと引っ越した。

その夏に私は震災後5カ月が経過した宮城県仙台市~岩手県宮古市に掛けて津波の被害を受けた沿岸部を車で回った。

目的は写真を撮り記録することだった。

当時はまだがれきの山や廃墟の建物が数多く残っていたが、それは5年10年と経過していくうちになくなってしまうだろう。

そして2011年以降に生まれてくる世代は、震災前の街はもちろんのこと、津波により町がどんな凄惨な風景になってしまったかさえも歴史上の出来事のようにしか捉えられなくなるだろうと。

撮影した写真をどのように社会に役立つように活用するかは特に決まっていなかったし、今も決まっていない。

ただ、私は実際に無残すぎる被災地の風景を車で走り、車を降りて歩き、シャッターを切るということを繰り返すことで、その恐ろしい出来事を写真だけではなく自分自身に深く記憶させることができた。

それが誰の何の役に立つのか?と説明を求められるとうまく答えられないのだけど、身近な人には自然災害の恐ろしさや、それを回避するための考え方を伝えられるのかもしれない。

時が流れるのは早いもので、気が付けば2018年になっていた。

私はお盆休みを利用し、家族と共に7年前に訪れた三陸へと再び向かった。

 

7年ぶりに訪れた三陸沿岸の街

気仙沼、陸前高田、釜石。

三陸の3つの街を訪れ、2011年に写真を撮影した場所で改めて写真を撮って回った。

しかし、景色があまりにも様変わりしていたために、同じポイントを見つけることが困難な場所も多かった。

震災によって破壊された建物や、打ち上げられた船を残し、震災遺構とする考え方がある。

震災遺構は、社会的・歴史的価値があるし、賛否が分かれるところだが経済的価値もあると思う。

なぜなら旅行者がそこを目的に訪れるからだ。

しかし、被災者にとっては家族や大切な人を失った恐ろしい出来事を彷彿とさせるものになるため、残したくないという考えもある。

それは当事者にしか分からないことだから、それに対しては私は何も言うことはできないが、災害の教訓を未来へ伝えるという意味でも、かつての街の名残を伝える意味でも残していくべきなのではないかと思う。

実は今回7年ぶりに各地を訪れて驚いたのは、想像以上に震災遺構が存在していなかったことだった。

更地の場所も少なくないが、新しい街が作られている場所はもはや災害の事実を伝えるものは皆無だった。

よそ者がどうこう言うことでもないのかもしれない。しかし、それでいいのだろうか?

 

気仙沼

宮城県気仙沼市は津波により1,033人もの人が亡くなり、15,815棟の住宅が被害を受けた。

そんな気仙沼市の写真を2011年のものと2018年のものを見てみよう。

 

●リアスシャークミュージアム

1階部分が津波の被害を受けた建物。当時はブルーの外壁だったが2018年現在はエンジ色の外壁に変わっている。

賑わいを取り戻しており、館内は観光客で混雑していた。

 

●魚市場

2011年は閑散としていたが、2018年現在は魚市場らしい活況があった。

 

●鹿折唐桑駅

JR大船渡線の駅だったが、現在はBRT駅になっている。

駅前には巨大な漁船が打ち上げられていたが、すでに撤去されていた。

 

●南気仙沼駅周辺

廃墟となった建物は全て撤去され、更地がひろがっている。

 

陸前高田市

岩手県陸前高田市は津波により1,556人もの人が亡くなり、203人が行方不明になった。4,046棟の住宅が被害を受けた。

 

●陸前高田市役所

3階まで津波被害を受けたことを物語る廃墟の市役所は解体撤去され、かさ上げされた土地に2018年現在は大きな駐車場と商業施設が並んでいる。

そこから海岸方面を見渡すと見せるのは、ただ物悲しく広がる荒野だった。

 

釜石市

岩手県釜石市は津波により888人の人が亡くなり、152人が行方不明になった。3,656棟の住宅が被害を受けた。

 

●釜石港

堤防を突き破り、道路に迫っていた「Asia Symphony」という貨物船。これは2011年の10月にクレーンで海に戻され、堤防も修復されていた。

港近くには釜石市民ホール「TETTO」が2017年に完成。2014年に完成したイオンタウン釜石へと連続している。

復興が進み街に賑わいが戻る一方で、震災の恐ろしさは忘れ去られていくということを実感した。

広島の原爆ドームの存在が原爆の恐ろしさを今に伝える重要な象徴であるように、震災遺構もまた積極的に残されるべきものなのではないだろうか。

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